青のなかをもぐる

オノマトペだけで通じあえたらいいのにね

前を向いているだけ(ちょっと元気になった)

いったいいつになったら動物園とか行けるのかな。あの子とまた行きたい、カバを見に。

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こうしてもやもやと生きている理由を突き詰めてみたら、社会と繋がっていない感覚があることに行き着く。

ずっと、自分の行動は誰にも見えなくてもいいと思っていて、こっそり楽しく生きていくぞと思って暮らしている。だけどもしかしたらそれはつまらないことなのかもな。死んでるのと近いことなんじゃないか。

家族や友達はきっと私が死んでもたまに思い出してくれるでしょ。だとしたら、あんまり変わらないというか、誤差なんじゃないかなとか。

もちろん自分のすることが誰かの役に立つとは思わないから、努力は必要なのだとは思うけど、何かするんだったら誰かの役に立てばいいと思う。

そもそもね、こっそり楽しく生きていくぞというのも弱気なだけで、無用の用でいたいという気持ちがあると思う、意味がないかもしれないけど実は役立った、とかかっこいいでしょ。でも、かっこいいからそうしたいな、というのはもう、ちょっと違うと思うんだよな。

そんなこんなで
2ヶ月くらい(実際には2年くらい)、
とにかく無力感を持て余して、
何かしたわけでもないのに給与を得て、
死ななかったから生きている、
という風に過ごしてきたのですが、
なんとか抜け出しつつある。です

いつかのために。言葉にできるようになったんだからしておこうという感じで:

その前

仕事で体制が少し変わった。で、仕事のできる先輩の言葉が、わたしにとってトゲだらけな気がしてきて、心拍数があがったり目から水が流れてきたりしていた。まあでも優秀な人だし、自分に怠惰な自覚はあるし、とはいえその人に何か言われるほど怠慢になってきて、あ〜〜〜どうしたものか〜〜〜〜〜といいながら、ま、考えなくていいや。と過ごしていた。

昔モヤさまで見た、松鶴家千とせの「俺が昔、夕焼けだった頃、弟は小焼けだった」の言葉が、え・・なにこれめちゃくちゃファンタジーじゃんすごくない??って思って泣いたりしていた。変だと思う。(よく考えたら「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ」ってことだったのかなぁ、先輩や、みんなに対して?)

いつから

はっきりと気づいたのは、お盆休みを取ろうと思ってたけど、なんかうまく休めなくて、そのあたりから。7月から徐々に、家にいることが増えて、もちろん会社で仕事をしていたときに、8時間きっちり成果を上げ続けていたわけではないけど、家にずっといると仕事と家事の境目がわからなくなってきて、何かを終える感覚がどんどんなくなってしまった感じがした。 仕事って、どんどん振られるわけではないのだとは思うのだけれど、あまりに管理されることがなさすぎて、やろうとしていることすら「やらなくてもいいこと」なんじゃないかという気がして、ちょっと錯乱状態に近かった。

受動的な習慣(地獄)が始まる

なんとなく、仕事以外で「他人」の存在を感じたかったのか、終業後や休日に同年代の同性の人のTwitterYouTubeの投稿を身漁っていた。
だいたいこんなん:

  • お部屋や家具にこだわってますよ
  • 運命の相手を探して努力してますよ
  • 楽しく暮らしていますよ

で、わたし:

  • 「すごいな、わたしはがんばれないよ」
  • 「ま、頑張らない道を選んだんですけどね〜」

痛いけど気になる的な中毒性で、わるいスパイラルから抜け出せなくなる。

※(とくに、精神的に満たされていない時は、)見ないに越したことがない。そもそも、SNSを継続的にやっている人は強いんだと思う。わたしだって今、ちょっとマシになったからブログ書いてるわけでしょう。人間、ほんとのほんとに元気なかったら動画撮れないし、人に会うことは(婚活とか)できないのよ。

その後3週間くらいの状況

1〜2週間くらいは、家で仕事をしつつ(集中できていたのかは記憶にない。この期間のことを思い出そうとしてもよく思い出せない、何も起こらなかったからかな)、何かを食べていたと思う。なんの本を読んでいたのか、読もうとしていたのかも不明。日記にも「昨日と同じ」というようなことしか残っていない。受動的な習慣が継続されていたのだろう・・・

ただ、オリンピック・パラリンピックを見て、頑張っているな・・・と泣いていたのは記憶があるような。。努力の美しさ/怠惰な自分への失望(表裏)が80%くらい、なんで泣いてるかよくわかんなくて自分可哀想(涙)が20%くらい

さらにその後の状況

あまりに仕事を先延ばしにしていて、こりゃまずいな、理由を考えよう、と思い始め、「先延ばし 理由」とかで調べ始めた。微かに残る自分の中の優等生キャラが、人生の夏休みに飽きてきたのかもしれない。大体調べてみても、それはしょうがないことだから、期限に間に合わせましょう。ということだった。そりゃそうだよね!!!と思って、期限がないもの(ばかりだった)に無理やり自ら期限を作って進めるように心がけた。

だんだん「なんで期限言ってくんないのかな。ほぼ全部じゃん。自分だけが悪いわけでもない気がする」ってなってきた。こういうときに、怒りが周りに向き出すのは割とマシになってきた状態だと思う。

お金の心配が常にあって、最近輪をかけてそれが悪化していると思ったので、信頼できる人の本を読んだ。

人生を豊かにしてくれる「お金」と「仕事」の育て方

この本のなかで私が一番感謝したいのは「お金は持っているだけではなんの価値もなくて、使って初めて意味のあるもの」という当たり前なことを優しく教えてくれた語り口だと思う。松浦弥太郎以外の人にこう言われても、グレまくってる私にはすんなり受け止められなかったかもしれないです。

たくさん本を読めるようになった。映画もみれるようになったし、映画などを見続けると集中力が続かなくなった(集中している証拠だと思う、少し前はいくらでも見れた。眺めているだけだったのかもしれない)

何が豊かなことなのかを考えてみる。もちろんお金も大事、時間も大事。家族や友達も大切だし、美味しいものも食べたい、音楽も聴きたい。そういうのは多分変わってない。

自分の目で選択肢を確認して、決定できること、それを自覚しながら行えることが豊かさなのかなと思う。仕事も、「自分から動ける人間になろう」とか言われても、そういうの当たり前だろと思ってたけど、自分でタスクを考えて自分にやらせているだけで、結局やらされているようなものだった。自分で選んでいるという感覚はなかった。

物は多くても少なくてもいい、ただ机の上は物だらけだと自分の性格上不安になるから、ちょっと元気があったら片付けておこうね。お金、なんかいいことに使いたいから、いいこと探そうと思ってる。

あと、カテゴライズのどこかに含まれなくても生きてていい。なんかやだなって思ったらやんなくていい、やらないぞと決めたことに誇りをもとう(だらしない選択でもいいんですよ)

節約癖と、使い放題だと時間泥棒になるかなと思って、インターネットに制限かけてたんだけど、それ止めたら、以前より区切りをつけてインターネット使うようになりました。選択肢は広い方がちゃんと自分で選べるんだなと思った具体例。

早くそうすればよかった。(ま、回り道は、”ここ”からみるから近道が見えるだけで、その道通らないとここに辿り着けなかったんだよな、と都合のいいことを考えてる)

Predawnのコーラスに小山田壮平の声だ〜〜〜〜ほんの何フレーズかなのに、すごくいい。

これは2年も前なのですか。わたしのインターネット、3年前で止まってたのかもな。


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