青のなかをもぐる

オノマトペだけで通じあえたらいいのにね

手のひらを握った日々の

きわめて個人的なことしか書いていないのにここにアクセスできた人ってなんでなんだろう?
知り合いでしょうか




フェイクファー


時々狂ったように何十回も同じ曲を聴くことがある。POP VIRUSというアルバムが出るまでは長いこと同じ1曲しか選択肢がなかった。明るいのか暗いのかわからない、静かに泣きながらなつかしくて笑っているみたいな曲。

星野源の「肌」も月に2回くらいリピートし続ける日がある。今日ヘッドフォンで真剣に聴いてみて初めて知ったけど、サビのギターはワウワウしてるのよりも静かにピッキングで鳴っている音のほうが色っぽいな。
音楽を作る人って、この音だからこの言葉を乗せようと思うんだろうか。うわセクシー、と思う音にはだいたい良い詞がついている。


幸せの中心にいる男女の曲かと思っていたけど、「手のひらを握った日々の」ということは過去のことなんだろうか?

どんな 近づいても
一つにはなれないから
少しだけ せめて

星野源という人は、「ばらばら」のときからそうした切なさや諦念みたいなものを漂わせているような気がして、心震わされてしまう。どんなに好きでも、完全にはわかりあえない。どんなに大切だと思っていても、完璧には伝えることが出来ない。それでも一緒にいることの尊さのことを思う。

触れ合うと 言葉より
君のことを知れる気がした

ここなんだよなあ、ずるいところ。相手に触れることでわかりあえるなんて、そんなのいつか解けちゃうまやかしだと思います、ずるい人の言うことだ。しかも「気がした」って!でも好きだ、なんか泣きそうになる。だって手をつないだ時のうれしい気持ちや、抱きしめたときの安心感をよく知っているから。でもずるいんだよな、星野源よ。


音楽のことはよくわからないけど、明るくも暗くもないまま終わってしまうから、また聴いてしまう。なんとなく心の中で、眩しがりながら太陽のほうを見てるノースリーブの長い髪の女の人のことを思う。あれは何の写真なんだろう?スピッツのフェイクファーのジャケットかと思ったけどちょっと違った。





相手が変わっても、なんとなく気持ちの起伏とか、刺さってるベクトルみたいなのは種類に限りがあるんじゃないかと思う。その種類自体が、自分が自分だなと思える部分というか、その組み合わせの味わいを楽しんでいるうちに人生が終わってしまえばいいなというか。恋愛とか愛情とか、難しいなと思う。でもみんなに同じように好きというのは嘘になるから相手に失礼なのかもしれない。それぞれの相手に、それぞれの気持ちをきちんと伝えることが誠実なこと?

例えば優しい言葉をかけられても、それ誰かにも言ったことあるでしょ、と思うとすごく悲しい。あれこれ工夫してほしい、なんて傲慢すぎるかな。でもわたしもなるべくオリジナルで頑張るからさ




右手に指輪をはめてみたら、違和感があって新鮮な気持ちになった。外はまだ寒いし、いろいろなことがあるし。いろいろ引き延ばして、だましだまし、春が来るのを待っている。