ひきこもってる。
すこし外にでようとおもう。
というか、明日は森は生きているをみてきます。
松本隆さんの詞は好きだなあ。
Wikipediaによると、はっぴぃえんどのメンバーは宮沢賢治の影響を受けている、とのこと。だから好きなのかな。
宮沢賢治の書く童話や詩は青や緑がすごくきれいだとおもう。文章から匂いがする。それが必ず青と緑と黄色の匂い。
宮沢賢治や中原中也を読んだときに感じるあの距離間はどこからくるんだろう。
関連動画で「恋は桃色」を聞いた。これは期間限定。
「おまえの中で雨が降れば〜」のフレーズがすごい。
星野源「ばかのうた」が出たとき、よく細野さんの「HOSONO HOUSE」のことに触れられていたけど、改めて星野さんの歌のルーツはここなのかも、とおもう。
外に出よう。
言語化しないと自分のことが全然わからないよ
2ヶ月ほどの長期休み、高校の同級生や教養時代の級友と少し会ったりして、一応楽しく過ごしてる。
あの子がんばってるなぁ → わたしもがんばろう
とはなかなかならないけど、
あの子楽しそうに生活してるんだな → ちくしょう…
みたいな妬みはなくなって、ライバル心を燃やすというやる気の出し方はもう出来ないのかなぁって寂しい反面、心が落ち着いてるのかと少し安心する。
遊ぶ友達が固定されて、だんだん嫌いな人とは接点もなくなっている。生活のなかの登場人物がどんどん減ってきてる。
人当たりは悪くないほうだと思っていたけど、誰かといることが苦手で、やっぱり友達が昔から少ない。だからといって淋しいとは思わなかったけど、お母さんに「いつも家にいるね」って言われると負い目みたいなものは感じていたから、もしかしたら淋しかったのかもしれない。(だから小学校の途中で毎日家に呼んでくれる友達ができてほっとした)
いまでも深い話をするのが苦手で、いつも自分の大事なことは隠してしまう。ものすごい自意識過剰だからだね。
いまもまだ実家に住んでいるから、家にずっといたりするとあの頃と同じような負い目を感じて、切ないです。でも、一人でいるのがすごく好きだ。当然だろうなぁ、楽なんだから。友達と遊んで一人歩く帰り道の開放感が大好きだった。(でもそれを味わえるのは誰かと一緒にいた後なのだから、人と会うことは必要なことなんだとおもう)
わたしが友達が少ない、と感じるのは、自分のことを考えすぎて自分とつながっているひとのことを考える羽目になっているからで、本来意識するべきことじゃないというのはわかっているんだけどな。好んで友達が少ないから、どうすべきなのかわからない。でも変化が必要。わたしの感受性が衰退してるから。
でも友達って気づいたら出来てるものじゃない。共通の趣味を持っている人に対抗意識を燃やしたりするからだめなんだよ!!よくしゃべるひとがいいな。違和感を感じないかどうかだな。たくさんのひとにもっと会ってみた方が良いな。数打てば、ってやつだ。。あーどこで出会えば良いんだろう!!!
ってことでたぶんこのままあと3年くらいは悶えながらもひとりの帰り道を楽しむ自分の後姿が俯瞰で想像視できます。
つい数ヶ月前にも同じようなこと思って「他人からの影響に頼ったらダメだ!自分で頑張ろう!」ってことになったはずだったんだけど、今日もそう思ってるってことは、無理ってことなのかな
うふふ。
「あ、何か得した気分。いや、今、思うと、あいつに会ったというだけで、俺はお前よりだいぶ、得した気がするよ」
って思いたい。優しさはどうやってつくられるんだろう。
映画「横道世之介」のなかの台詞。
何も考えないで勉強したいなぁ。
じゃあまた。