青のなかをもぐる

オノマトペだけで通じあえたらいいのにね

171105 Sun.

葉っぱが散って木が冬の準備を始めたな、と思っていたら、急激に寒くなった。おじいちゃんちにいくとストーブがついていた。水道水を口に含むと冷たかった。秋の洋服は枯葉みたいな色ばかりで少し苦手だ。冬がはじまったことがうれしい。暑くてイライラすることはあるけど、寒いときは頭が冷えて怒らずにすむ気がする。


今年は紅葉がとてもきれいで、例年より秋が長かったような気がする。10月はおいしいごはんをたくさん食べました。





必要な情報ってなんだろう?と考えている。テレビを見なくなったかわりにインターネットをよく使うようになった。テレビを見ることは受動的な行動であるかわりに、インターネットは自分の必要な情報を自分で調べるから能動的な使い方が出来ると思ってたけど、最近はインターネットに時間を蝕まれている気がする。することがなくなると考え事をしているので、たぶんいまはアウトプットが必要な期間のはずなのだ。

何かを新しく買うことで、心が満たされるわけではないな、とも思っている。新調した後、古い型のモノの行く末のことを考えると落ち込んでしまうから。ここにはきっと、在るものしかないです。



いろいろな意味で、「必要なもの」ということについて考えている途中です。

待ちぶせた夢のほとり

Internet Explorerはてなブログを開くと非常に重くて、「記事を書く」を押しても3分くらいページが移らなかったので、ずっと書いてませんでした。一年前を振り返りませんか?というメールが来て、自分が昔考えていたことを残しておけることはとても貴重に感じたので、この機会を失うのはもったいないと思いました。Chromeを使うとすんなり開けたので、もっと早く思いつけばよかったなって思ったけど、今までがあるから今がある、みたいな偉人の言葉を思い出して後悔するのをやめた。これからもブログは続けます



とはいえ、確実に自分のなかから言葉が発生しなくなっているのを感じる。前はきっと、言葉が恋人で、ずっとおしゃべりしていたんだと思う。

メロディで言葉の意味が変わってしまうような瞬間が好きだ。歌はすごいとおもう。(わたしはこの歌という文字が苦手だ、左の可がふたつ積み重なっているのが目みたいに見えるから。Songという単語は素敵、Sunにも聞こえる)
耳に聞こえた雰囲気しか感じ取ろうとしていないので、歌詞をじっくりみたときに驚くことがある。中学生くらいまでは歌詞カードを読むのが好きだった。今はなんだかどうでもいいなと思っている。実際はどうでもよくない、むしろ言葉に対して昔よりも敏感になっていると思う、ただ耳ざわりでその言葉が適切かどうかすぐに判断できるようになったのかもしれない。言葉は自分のなかを通り過ぎるものではなく、自分のまわりに漂うものになったのだと思う。


タイトルを見てすぐに曲を思い出せるほうがいい。そうじゃないのも、味わい深くていいけど。浸透してしまえば。スピッツの「ロビンソン」がとても好きです。あれはもう、ロビンソンだよね。
ロビンソン




中学生のころは土曜の朝に3冊くらい本を読んでいたなと思いだした。だんだん映画のほうが好きになって、今は一番写真が好きだ。
昨日の夜に食器を洗いながら、その理由を考えていた。読書は点を線でつなげていくのに似ている。読み終わると大きな絵ができる。わたしはそれが読書の醍醐味だと感じていたから、だんだん長編よりも連作短編集などを読み漁るようになったんだなと腑に落ちた。
映画には映像があるから、活字よりも視覚的な情報が増える。与えられた一面から、立体が出来上がっていくみたいに。目で追って頭で考える作業がいくらか少なくなる分、頭の中で、心情を感じ取る幅が広がる。色や形や音は、受け手へ届いたときの広がりが多いという意味で、詩よりもさらに詩的だと思う。

今、写真が好きな理由は、説明が一切(ほとんど?)なくて、得られる気持ちが自分だけのものであるような気がするからだ。写真は映像の一瞬を切り取っているものとも思える。点だけが与えられる。次の瞬間は自分の世界でだけ答え合わせができる。






何について書こうとしていたわけでもないのに、ブログを書き始めるとなにか思いつくから不思議だと思う。自分のなかには常に何かを書きたい気持ちがあるのだな、とおもうと嬉しい。


またね。

CLIMAX NIGHT

もう終わりなの?まだ踊っていたいのに




この青のなかをもぐる、というページなのですが、最近更新する気が起きず、もう閉じてしまおうかって思ってました。
青というのはわたしの大好きな色で、魚にとっての海水のようなものだったのだけれど、もうわたしは青のなかにいないな、と気づいてしまった。すきなものに何も変わりはないはずだけど、わたしは明らかに生まれ変わってしまったのだ。もうわざわざ青を選んだりしない。対照色も補色も好き、どの色もいとおしくてたまらなくなった。色は季節で、音楽で、止まらずに続いていく。青の持つ神秘的な力がもうわたしには認識できなくなってしまった。それだけの年をとってしまった。

いま欲しいものは、植物図鑑。祖父母の整える庭が美しくて力強くて素晴らしいな、と思ってからずっと気になっている。いつかわたしだけの庭を持ちたい。

平屋の慎ましく荘厳な一戸建てに住みたい。最近は欲張りでいろんな理想を放し飼いしている。そばにずっとあの人がいればいいなと思う。それだけでいいな、それがとても難しいことなのだろうな。と思う。からだの調子を均して、出きるだけ穏やかに長く生きたい。


結局まだわたしは青のなかにいるはずなのだ。青のなかから抜け出したと思っているこの状態こそが、青のなかをもぐっている証拠。うふふふ。

サンダル履きの足指に見とれた

一人で研究し続けることってとてもむずかしいだろうなと思う。何かを発見して、その学問の言葉で記述したあとで、人に見てもらってフィードバックを受けなければ前に進みにくい。

わたしは誰に宛てるでもなく、時間が空けば文章を書き続けられるような気がしているけど、そんなふうに勉強も続けられる人もいるのかもしれない。良し悪しはわからないけど、そういうものが存在しているだけで、生きていけるとわたしは思うのだ。


例えば、洋服の、自分しか見えないような裏地にこだわりを持つだとか、そういう類の話だ。

他人の介入など構わない、もしくは気づかないような個人的なこと。

 


何年か前までは、頭のなかが自意識でいっぱいだったような記憶がある。だからきっとこんなふうに、ブログみたいなものを作ったのかもしれない。わたしはいろんな気持ちをすぐに忘れてしまうのが惜しくて、いろんなところに真っ白なノートを置いておきたかったのがいちばんの理由だけど。

ずっと、無意識でただ「ここにいる」ことに夢中でいられやしないかと、憧れていたんだった。邪推や後悔すべてを考慮に入れずに、時間を過ごしたかった。

 

この一年近くは、やわらかい日差しの中で優しい風を受けているような、心地よい気持ちでいきている。心の中から何かが消えるのはいつも突然で、気がつくといなくなっているような感じ。恋も泡も。意識しないことを意識しなくなったんだろうな、と思う。

 

とはいえ来年になったらまた生まれ変わるんだろうな。きっとそれも楽しいけど!

 

 

 

ともだちのまっすぐな眼差しがとてもよかった。オレンジのペディキュア、夏いね

 

 

フェイクファー

もうすぐ夏が来る

もう湯浅将平のギターは生で聞けないけど、あらゆる媒体に残っているから思い出せる。

 

PERFECT BLUE

 

 

君もわたしも、欠点だらけだね。いつもごめんなさい。

 

でも今年も同じ夏を過ごせそうでうれしいです。秋も冬も!ずっとよろしくね。

無線が切れた さよならをした

ひとりぼっちの人工衛星





5月もおしまい

たのしいことがたくさんあった!細々した嫌なこともあったけどきっと半年もしたら似たような嫌なことに追われて忘れてしまうようなレベル。そうやって続いていくとおもう。

6月のカレンダーも最高です。傘や雨を思わせるデザイン。この街もだんだん梅雨の季節がはっきりとしてくるようになった。環境問題のせいだろうか、と安易に思っている。

小学生くらいのころ、地球温暖化について調べたり文献を読む機会がとても多くあったような気がする。今の小学生もそうなのだろうか?違うんじゃないかなって思っている。いつだってこどもは大人にふりまわされるんだろうな。良くも悪くも。そして気がついたら自分は大人側だと意識するようにできている、たいていの人間は



わたしのウェブログ、真っ白に黒い文字のページ、全然現実味がないので気に入っている。改めて気がついた。時間が空いても必ず戻ってきてしまうとおもう。死ぬまで。



ひとりぼっちの人工衛星、とても空しいのだけれど、音楽は少し陽気だ。余計に空しいと感じるときもあるし、開放感を感じることもある。このアルバムはやっぱり不思議だ。何年経ってもわからない。わからない魅力がある。
空洞です



人生が何かの道をぐるぐる回っているのだとすると、今年の夏は中学一年生の夏みたいに、じっと和室できょうだいと人生ゲームをしてる、みたいなのがいい。暑い部屋で、昼になったら麺を食べて、それ以外はずっとルーレットをまわす。何が楽しいのか思い出せないけどひたすら楽しかった。夏の充填率はあれが最高だったと思う。あんなふうにすごしたい。



計画を立てられないのは、組織に属することになったとき問題が起こりやすいと思うので、改善しようとおもう。

あと、写真をたくさん撮りたい。




そして陽気にすごそう


まるごと

げんきです。もう4月もおわりそう。



ことしは雑誌イラストレーション付録の100%ORANGEカレンダーを使ってるので、たぶんおちゃめに生活している。たまにスカートをはいてみようとしたりしている。きっずたちが毎月とてもかわいいです。



このまえ酔っ払って古本屋で買ってた本
まるごと好きです (ちくま文庫)
工藤直子さんの「まるごと好きです」というエッセイ。



ぜんぜん友達がいないな、と思っていた時期もなくはなかったんだけど、気づくといま、近くに会いたい友人がたくさんいる。友達がほしいとおもっていたときというのは、憧れを強く持っていた時期だ。憧れ、というよりは、固定観念だろうか。そのくせ、生まれながらきらきらした人なんかには敵対心があったので、心がぎすぎすしていただろうなと思う。
いまも、相容れないひとはいるし、嫉妬もするけれど、自分は自分でいいんじゃないかなって少しずつ思えるようになった。いろんな人と知り合って、やさしい気持ちをもらったりあげたりしているうちに、友達が増えた気がする。

工藤さんの、ともだちに関する考え方やともだちの話の本。どれもすごくおもしろい、とおもうのは、結局わたしがどんなひとのことも好きになってしまうからだとおもう。

ここが嫌い、とかいろいろあるけど、全体として、他者のことを嫌いになれない。すごく中途半端な人間だな、と思う。やさしさだけの人間では、けっしてないから。






好きな人のもちものと、おそろいを買おうとしたら、もう売り切れていた。もっとはやく気がつけたらよかった。ほとんど一点ものだったらしく、なおさら残念な気がしてくる。いまはいまだけ、の極みってかんじだ。


そういえば最近、「~の10つの方法」みたいな名前のWeb記事を気づくと漁っていて、すごくつまらないにんげんだな、と思っている。紙の日記を書く時間すらあまりとれていないから、はてなブログは後回しにしていたけど、そんなの見ている時間を全部削ったら、たくさん日記も書けると思う。ようやくまた文章が書きたいなと思うようになってきた。たぶんいくつか、いらいらを助長させる文章を読んだせいだ。よしあしは知らないけど、わたしには合わなかったんだとおもう。まただらだら日記を書く時間を、意識的につくろうとおもう。



明日は野菜とか買いに行きます。またね