青のなかをもぐる

オノマトペだけで通じあえたらいいのにね

そんな夜さ

 

いろいろなゴールテープを切って、宙ぶらりんのまま遊んでいました。楽しかった。こんな日がずっと続いたらそれはそれで悩み事が生じそうだけど、期間限定だからただ楽しい毎日。

 

 

 

最近改めて気づいたことは、わたしは日常のなかで好きな色や形を見つけることで幸せを感じる人間だということ。手に入れられなくてもいいから、なるべくたくさん目に触れられるといいなと思う。

 

きょう見た夕方の空はとてもきれいだった。話し込んで、外に出たらきれいな丸い月が浮かんでいて、幸せな日だと思った。なんだか今日は最後の日にふさわしいな、と思った。今日は学生として大学に行った最後の日。

 

新しい靴を履き馴らそうと思い、ついでに学生生活のうち1000日くらいを共有したゼミの同期のところへ行ってみた。恋人と3人で温かい飲み物を飲んだ。わざわざ3人でマグカップを洗いに狭いシンクまで行くと、一気にさみしくなった。 お話に出てくる別れみたいに涙を流したりはしないけど、確実に時間が過ぎていくなぁと思った。

振り返ると今年の1月は非常に長くて、3月なんて来るのだろうかと考えていた。それがもう4月なのだから、やっぱりわたし、気づいたらすぐにおばあちゃんになるな。生きていれば。でもきっと、この4月からはそんなに甘えたことばかりも言っていられなくて、時間が過ぎるのが長いこともたくさんあって、この、一瞬で過ぎた春休みのことを懐かしく感じるのかも。だとしたら尚更、こんなふうに過ごせてよかった。出かけようと誘ってくれるともだちがいて、家族がひとまず大病を患わずにいて、心のそばに恋人がいて、よかった。

 

 「たぶんまたすぐいつでも会えるけど」と言って3人で解散したあとで、同期がお土産を渡し忘れたからと言って、ほんとにすぐ再会した。さみしかったのは撤回しようと思った(だけどそのぶんやっぱり今さみしくなった)。大学に行けば誰かに会えて、話をして、そんなふうにこの2年間過ごしてきたのが終わるのは、やっぱりさみしい。むかつくこともいろいろあったけど。終わり際でさみしくなるのは人間の性質なのか、わたしの性格なのか、なんにしてもいやになっちゃうわ~。感傷癖。

 

 

 

いろんな人がいろんなことを言う事を知っている。それを忘れないようにしないといけないと思う。良いこと、正しいこと、間違い、常識、いろいろ聞いたり受け流したりする。考える。伝える。行動する。忘れない。忘れる。

 

よく考える。試行錯誤する。何のために生きていこう?って考えるのはだいたい暇なときだ。楽しく歩きながら考えたほうがラクなときもある。(歩きすぎたり暴走しないように、たまには立ち止まって考えること。)

 

 

何より、寿命を全うしたいなと思う。すきなひとがわたしの恋人で嬉しい。なるべく長く死なないように。わたしもきみも。心も体も。

 

 

 

大人になっても夜道を浮かれて歩くのかな?

 

そんな夜さ。

 

Climax Night

 


Yogee New Waves / CLIMAX NIGHT (New Version - Official MV)

悪い夢ならまだいい

足枷を僕はずっと探していたんだ

 

 

 スカートが聞きたくなる。暦がもうすぐ春だから!この街はまだまだ寒いです。

CALL

 

それでも、秋の寒さとは違って、ひだまりが暖かい気がする。たぶん残った雪のせいで、湿度が上がるから? 

 

 

 

うまく眠れないな。だんだん飛び立つまでのカウントダウンが残り少なくなっているのがわかる。大丈夫かな。困ったな。

 

 

とりあえずあしたね。

 

 

修了式。

180318 Sun.

計画していたすべての旅行が終わった。いろいろ考えていたことや思ったことがあったことは覚えているけど、それがなんだったのかもう思い出せない。




一緒に話したい人、考えたことを言いたい相手は人生を豊かにする。本当にわたしはラッキーだなと思う。


この間、偉い先生が退職するにあたって最後の講演があった。わたしのような適当なわかものにも優しくて、子供と話すみたいに接してくれる人で(研究の話になるとちんぷんかんぷんだったけど...)、年を重ねるほど精力的に新しい分野に関心を移しているのが伝わってくるところに憧れる。

その先生が、自分の経歴に関して何度か「ラッキー」という言葉を使っていたのが気になった。もちろん他人の目から見てもそれは「ラッキー」な仕事の舞い込み方だった。でも自分の人生のなかのいくつかの部分をそう評価するのはとても客観的なことで、大人が(もっというとおじいさんが)そんな風に言うとは思わなかった。ちょっと拍子抜けした。


ときどき自分の力だけでなにか出来たと思ったりするけど、必ずそこにはなにか他の力が働いていて、成功が妨害されずにすんだりしている。それをぜんぶ、「ラッキーなことだ」と思って、口に出してみると、じぶんはとても幸せな人間なんだという気がしてくる。保護膜のようなもので守られるみたいに。そうやって見えないバリアを増やしていく。

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泣かないでピーナッツ クリームになったピーナッツ

ピーナッツクリームになるのはやっぱり痛いのかな?



長いこと文章を書いていなかった。何回も書こうと思ったけど、少し書いてやめていたのは、書かない期間が空き過ぎてどんな風に始めたらいいかわからなくなったからです。

でもきっと、こんな日に再開するのがいいだろう。映画「好きだ、」のなかでも、好きと伝えられるのは事故のあとですから。(つまり、何か起きないと、物事は動かないことが多いよねってこと)



とはいえ最近は何も考えていない。話題が見つかりません。


そういえばこの前の帰宅途中(休日の昼間)、60センチ分くらいにメジャーを固定して歩いているお兄さんがいた。大きな公園のようなところ(メタファー)で。おしゃれな格好をしていた、アウトレットモールに行くときみたいな感じに。ちょうどいい長さのものを探してたのかな。

ねむくなってきたからおやすみなさい。
またすぐかきます。

171105 Sun.

葉っぱが散って木が冬の準備を始めたな、と思っていたら、急激に寒くなった。おじいちゃんちにいくとストーブがついていた。水道水を口に含むと冷たかった。秋の洋服は枯葉みたいな色ばかりで少し苦手だ。冬がはじまったことがうれしい。暑くてイライラすることはあるけど、寒いときは頭が冷えて怒らずにすむ気がする。


今年は紅葉がとてもきれいで、例年より秋が長かったような気がする。10月はおいしいごはんをたくさん食べました。





必要な情報ってなんだろう?と考えている。テレビを見なくなったかわりにインターネットをよく使うようになった。テレビを見ることは受動的な行動であるかわりに、インターネットは自分の必要な情報を自分で調べるから能動的な使い方が出来ると思ってたけど、最近はインターネットに時間を蝕まれている気がする。することがなくなると考え事をしているので、たぶんいまはアウトプットが必要な期間のはずなのだ。

何かを新しく買うことで、心が満たされるわけではないな、とも思っている。新調した後、古い型のモノの行く末のことを考えると落ち込んでしまうから。ここにはきっと、在るものしかないです。



いろいろな意味で、「必要なもの」ということについて考えている途中です。

待ちぶせた夢のほとり

Internet Explorerはてなブログを開くと非常に重くて、「記事を書く」を押しても3分くらいページが移らなかったので、ずっと書いてませんでした。一年前を振り返りませんか?というメールが来て、自分が昔考えていたことを残しておけることはとても貴重に感じたので、この機会を失うのはもったいないと思いました。Chromeを使うとすんなり開けたので、もっと早く思いつけばよかったなって思ったけど、今までがあるから今がある、みたいな偉人の言葉を思い出して後悔するのをやめた。これからもブログは続けます



とはいえ、確実に自分のなかから言葉が発生しなくなっているのを感じる。前はきっと、言葉が恋人で、ずっとおしゃべりしていたんだと思う。

メロディで言葉の意味が変わってしまうような瞬間が好きだ。歌はすごいとおもう。(わたしはこの歌という文字が苦手だ、左の可がふたつ積み重なっているのが目みたいに見えるから。Songという単語は素敵、Sunにも聞こえる)
耳に聞こえた雰囲気しか感じ取ろうとしていないので、歌詞をじっくりみたときに驚くことがある。中学生くらいまでは歌詞カードを読むのが好きだった。今はなんだかどうでもいいなと思っている。実際はどうでもよくない、むしろ言葉に対して昔よりも敏感になっていると思う、ただ耳ざわりでその言葉が適切かどうかすぐに判断できるようになったのかもしれない。言葉は自分のなかを通り過ぎるものではなく、自分のまわりに漂うものになったのだと思う。


タイトルを見てすぐに曲を思い出せるほうがいい。そうじゃないのも、味わい深くていいけど。浸透してしまえば。スピッツの「ロビンソン」がとても好きです。あれはもう、ロビンソンだよね。
ロビンソン




中学生のころは土曜の朝に3冊くらい本を読んでいたなと思いだした。だんだん映画のほうが好きになって、今は一番写真が好きだ。
昨日の夜に食器を洗いながら、その理由を考えていた。読書は点を線でつなげていくのに似ている。読み終わると大きな絵ができる。わたしはそれが読書の醍醐味だと感じていたから、だんだん長編よりも連作短編集などを読み漁るようになったんだなと腑に落ちた。
映画には映像があるから、活字よりも視覚的な情報が増える。与えられた一面から、立体が出来上がっていくみたいに。目で追って頭で考える作業がいくらか少なくなる分、頭の中で、心情を感じ取る幅が広がる。色や形や音は、受け手へ届いたときの広がりが多いという意味で、詩よりもさらに詩的だと思う。

今、写真が好きな理由は、説明が一切(ほとんど?)なくて、得られる気持ちが自分だけのものであるような気がするからだ。写真は映像の一瞬を切り取っているものとも思える。点だけが与えられる。次の瞬間は自分の世界でだけ答え合わせができる。






何について書こうとしていたわけでもないのに、ブログを書き始めるとなにか思いつくから不思議だと思う。自分のなかには常に何かを書きたい気持ちがあるのだな、とおもうと嬉しい。


またね。

CLIMAX NIGHT

もう終わりなの?まだ踊っていたいのに




この青のなかをもぐる、というページなのですが、最近更新する気が起きず、もう閉じてしまおうかって思ってました。
青というのはわたしの大好きな色で、魚にとっての海水のようなものだったのだけれど、もうわたしは青のなかにいないな、と気づいてしまった。すきなものに何も変わりはないはずだけど、わたしは明らかに生まれ変わってしまったのだ。もうわざわざ青を選んだりしない。対照色も補色も好き、どの色もいとおしくてたまらなくなった。色は季節で、音楽で、止まらずに続いていく。青の持つ神秘的な力がもうわたしには認識できなくなってしまった。それだけの年をとってしまった。

いま欲しいものは、植物図鑑。祖父母の整える庭が美しくて力強くて素晴らしいな、と思ってからずっと気になっている。いつかわたしだけの庭を持ちたい。

平屋の慎ましく荘厳な一戸建てに住みたい。最近は欲張りでいろんな理想を放し飼いしている。そばにずっとあの人がいればいいなと思う。それだけでいいな、それがとても難しいことなのだろうな。と思う。からだの調子を均して、出きるだけ穏やかに長く生きたい。


結局まだわたしは青のなかにいるはずなのだ。青のなかから抜け出したと思っているこの状態こそが、青のなかをもぐっている証拠。うふふふ。