青のなかをもぐる

オノマトペだけで通じあえたらいいのにね

だれかのいとしいひと

好きな本10冊はもうきまってる。わたしは有名人じゃないし、そうなる予定もないのに、決めている。生活にふっと現れる本。

だれかのいとしいひと (文春文庫)

わたしは固有名詞を覚えるのが苦手だ。塾で働いていたとき、人の名前をおぼえるのは得意だと思っていたのだけれど、今日、角田光代の『だれかのいとしいひと』を読み返す前、登場人物の名前を全然思い出せないな、って愕然とした。こんなにも好きで距離が近いように感じている人々でさえ、会ったことがないと名前が記憶に残らない。ただ、色や味や匂い、ざらざらしているとかそういう質感みたいなイメージだけが思い出される。わたしはそれだけでいとおしいな、と思える。


この「だれかのいとしいひと」というタイトルがどこから付けられているのかも、思い出せなくて読み返したんだけど、小説に登場するのはほんの一文で、しかも「だれかと、そのひとのいとしいひとと、自分」という構図の一要素だったのだけれど、どのお話も「You and I」で完結していなくて、もうひとりそばにいる。回想のなか、友人の恋人、昔の恋人。ぜんぶ、だれかのいとしいひと。




わたしはきっとこの先も何かに固執できない。詳しく覚えられない。そこにさみしさはあるけれど、いまのところ圧倒的に困っていることはないので、このぼんやりした感覚のままで生きていていいかな、と思う。わたしはこれでいい。




まだ若いのに、わたしはこれでいい、なんて限度を決めるのはもったいないことだろうか。でも、これからはぼんやりと社会に溶けて、埋もれてしまいたい気がするのだ。今までそれがいちばんむずかしいことな様な気がしていた、わたしは悪目立ちする性質で、よくもわるくもずっとこんな風なのだと決め付けていたから。




着たい洋服を着て、住みたい家に住んで、食べたいものを食べる。それからのことは、全部整ってから考えてみたい。ずっとその場しのぎでいい。そのほうがわくわくするよね!








高校の同級生が休学して留学し、ブログを書いていたのだけれど、面白くなかったからわたしも日記を書きたくなった。(アクティブでネガティブなその人のことを嫉妬しているせいだとおもう。なにを贅沢な!と思ってしまった。)でも書きたい文章を書くのは日々の鍛錬にしか成し得ないことだから、思ったようにかけませんでした。


日記を書くのは時間がかかる。大事なことが見つかったから、後回しにしていたけれど、本質的にわたしは日記を書くのがすきなのだな、と思いました。



あんまり空白の期間がないように、こまめにかこう。これはきっとライフワーク。だれかに届けるものではないけれど。