青のなかをもぐる

オノマトペだけで通じあえたらいいのにね

優しくなって プレゼント持って

あー


きょうは不幸でもないけどとびきり幸せというわけでもない、ただの一日なので、妄想をぐだぐだかく。





指輪にまつわるあれこれ。なぜか気づくと指輪をしている人にひかれている。このときの指輪とは、アクセサリーをさしているわけではない。見せ付けられるほど心の中で痛々しく輝くタイプの指輪の話。かつわたしは女なので、この話は指輪をしている異性についてに限られる。


すてき、と思ったら(べつにわざとみせてくるわけじゃないのもわかってるけど)、その直後とかに薬指の指輪に気づかされる。うわわわ。やっぱり素敵なひとにはきちんとした相手が。この洋服もその人が選んだんだろうか。これから一緒にご飯を食べに行くのもその人とだろうか。だけど考えるほどすてき。礼儀正しい。優しい。でも突拍子もない冗談を言ってくるなんて、なんてハイセンス。わたしにだけお疲れさまって言ってくれた。


わたしは惚れっぽいので、こんなことをくり返してると、このひとじゃなかったら恋人いらない、という人だらけになって、自分が魅力的でありたいとかそういうことを思えなくなる。なんの努力もしなくなる。ただ好きなだけでいい。その気持ちだけで生きれる、とか思いはじめる。




なんとも思ってないひとが、指輪をするだけで「だれかがわたしの知らないところでこの人のすごくいいところをみつけたんだろうな」と思うと悔しくて、だんだん素敵に思えてきてしまう現象も見受けられる。

だんだん浮いてきたのが、わたしは指輪と、その輝きにひかれてるだけ説。

わたしがそうなのだとしたら、70億人もいたらひとりくらいそうゆうひといるんじゃないかと思うから、わたしもてきとーに薬指に指輪をはめようかしら。


それはちょっとむなしいけれど!笑



○    △    ◇




ここで常々考えている、「わたしがそうならば、他にも」という考え方がどの程度正しいのか、という話を持ち出してみる。

この共通人数が多いほど、そして共通項が多いほど、存在が普遍になれそうな気がするのですが、わたしは自分がどの程度人と同じで、どのくらい人と違っているのか、ということが全然わからずにいる。普通はそもそもこういうことを考えないのだろうか?(この質問でさえも、自分が普通からどのくらい離れているのかを測るものさしに替わってしまいそう)


わたしはあんまりひとに共感されたくないけれど、先生と呼ばれる仕事に責任を持って取り組んでいたころ「生徒には共感をもって接すること」とよく言われて(そして共感しているふりをするのがとても得意で、うまく生徒に愛されていたことくらいは書いてもいいかな)、他人に対しては共感するように常に心がけをしている。ただ欠点は、わたし自身が共感を求めていないために、本気で共感できていないところだ。だからときどき相手にばれてしまうこともあって、だけどそれを含めてわたしと接してくれた人が多くて、その度に相手に敬意をもった。


「あなたの気持ちはよくわかる」という態度は、どうもわたしにとっては傲慢なものにみえてしまう。この悲しみや怒りや賞賛、感動、それを感じているのはわたしだけで、わかってもらってはこまる。わたしの気持ちはいつだって絶対値が大きくて、いつも気持ちを持て余してしまう。だからへらへら笑ってる。困ったときも楽しいときも。あなたにははじめからわかりっこないのだ。


そうおもいつつ、わたしは「自分と他人の共通部分」に頼ろうとする。自分がどのくらい「はずれずに」いられているか、気になってしまう。




○    △    ◇


そういえば、小学生くらいのころのエピソード。こうゆうことが積み重なって、わたしは学校の先生にはなりたくないとおもったし(自分のような生徒が現れたとき困るなっておもったし、単に人間としてひかれる先生もいなかった)、男の人がいまだに苦手だ。べつに性別とかは関係なくて、運の問題だとおもうんだけど。
そのときのおじいちゃん先生は、日頃からわたしたちに約束事を強制的に言わせていた。避難訓練のきまりは「押さない走らないしゃべらない」。なのにその日、なんだか集合に間に合わなくて、先生はわたしたちに走って行くように命じた。今思えば、実験の授業とかをしていて、先生のせいで集合に遅れた気がする。わたしはありえないとおもって、走らなかったし、先生に日頃の「はしらない」のきまりはなんなんですか、って聞いた。なんて言われたかおぼえてないけど、わたしは怒られて、悔しくて泣いた。

いまでも悪くないと思ってる。先生はなぜ約束を守らないとならないか、きちんと教えるべきだったし、日常的にきまりを守ることを強要させるだけで、大切なときに機能しないきまりに何の意味もない気がする。なにより、わたしの性格がこんなに複雑になってしまった理由の一端といっても過言ではない出来事になってしまった。先生だけの責任ではないけど。(でもわたしはもう大人だから、「はいはい」って言って走ればよかったのに、と思ってもいます)


これはそういう感じの、つまりわたしが持つ必要のない正義感を持っていることの一つの例で、こんなことばかりでただただ生きづらい。




なんか思い出したから他の話。ちょっとひととちがうんじゃないか、みたいなことはたくさんあって、とくに人に嫌われたくないという気持ちが強すぎるがゆえに現れる行動。

満員電車で動くと邪魔なんじゃないかとおもって、自分の駅で降りられなかったことは何回もある。

これは単なる移動だからまだいいけど、いつか人生を決めるような選択に対して、降りたいところで降りられなかったらどうするんだろう。




まぁ
それはそれでわたしらしいかな


○    △    ◇



「でも面白いね」とか言ってくれる人がいて、だからわたしは生きることができている。共感という攻撃のなかにも、たまには幸せの種みたいのもまじってる。そうゆうひとを大切にしたい。でも自分を甘やかしてばかりでもだめだなぁ




「どうしよう」って追い詰められてるひとがいたら「だいじょうぶ」って言おうってことだけは決めてる。

無責任にもみえるけど、わたしはこの「だいじょうぶ」に何度も救われてきたから。



なにがあるかわかんないから、準備がだいじだ!




○    △    ◇


そろそろ何がいいたいかわかんなくなってきた。


声を何度もなぞるように思い出してしまう好きな人もいれば、声も顔も思い出せない好きな人もいる。こころは難しい。




最近また共感覚がすごい。共感覚と関係ないかもしれないけど、悪くないフラッシュバックも多い。ふとしたときに祖父の家のお風呂場の風景とか、ストーブの前とかが現れる。目の前にというか、頭の中にというか。


自分でいるぶんにはなにも支障はないのだけれど、何かの前兆でなければいいなとおもう。心は難しい。





もうすこしずつ、勉強量ふやしましょうね。




Have a nice holiday!