青のなかをもぐる

オノマトペだけで通じあえたらいいのにね

待ちぶせた夢のほとり

Internet Explorerはてなブログを開くと非常に重くて、「記事を書く」を押しても3分くらいページが移らなかったので、ずっと書いてませんでした。一年前を振り返りませんか?というメールが来て、自分が昔考えていたことを残しておけることはとても貴重に感じたので、この機会を失うのはもったいないと思いました。Chromeを使うとすんなり開けたので、もっと早く思いつけばよかったなって思ったけど、今までがあるから今がある、みたいな偉人の言葉を思い出して後悔するのをやめた。これからもブログは続けます



とはいえ、確実に自分のなかから言葉が発生しなくなっているのを感じる。前はきっと、言葉が恋人で、ずっとおしゃべりしていたんだと思う。

メロディで言葉の意味が変わってしまうような瞬間が好きだ。歌はすごいとおもう。(わたしはこの歌という文字が苦手だ、左の可がふたつ積み重なっているのが目みたいに見えるから。Songという単語は素敵、Sunにも聞こえる)
耳に聞こえた雰囲気しか感じ取ろうとしていないので、歌詞をじっくりみたときに驚くことがある。中学生くらいまでは歌詞カードを読むのが好きだった。今はなんだかどうでもいいなと思っている。実際はどうでもよくない、むしろ言葉に対して昔よりも敏感になっていると思う、ただ耳ざわりでその言葉が適切かどうかすぐに判断できるようになったのかもしれない。言葉は自分のなかを通り過ぎるものではなく、自分のまわりに漂うものになったのだと思う。


タイトルを見てすぐに曲を思い出せるほうがいい。そうじゃないのも、味わい深くていいけど。浸透してしまえば。スピッツの「ロビンソン」がとても好きです。あれはもう、ロビンソンだよね。
ロビンソン




中学生のころは土曜の朝に3冊くらい本を読んでいたなと思いだした。だんだん映画のほうが好きになって、今は一番写真が好きだ。
昨日の夜に食器を洗いながら、その理由を考えていた。読書は点を線でつなげていくのに似ている。読み終わると大きな絵ができる。わたしはそれが読書の醍醐味だと感じていたから、だんだん長編よりも連作短編集などを読み漁るようになったんだなと腑に落ちた。
映画には映像があるから、活字よりも視覚的な情報が増える。与えられた一面から、立体が出来上がっていくみたいに。目で追って頭で考える作業がいくらか少なくなる分、頭の中で、心情を感じ取る幅が広がる。色や形や音は、受け手へ届いたときの広がりが多いという意味で、詩よりもさらに詩的だと思う。

今、写真が好きな理由は、説明が一切(ほとんど?)なくて、得られる気持ちが自分だけのものであるような気がするからだ。写真は映像の一瞬を切り取っているものとも思える。点だけが与えられる。次の瞬間は自分の世界でだけ答え合わせができる。






何について書こうとしていたわけでもないのに、ブログを書き始めるとなにか思いつくから不思議だと思う。自分のなかには常に何かを書きたい気持ちがあるのだな、とおもうと嬉しい。


またね。