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青のなかをもぐる

オノマトペだけで通じあえたらいいのにね

入出力の比率のこと

あっというまに3月だし、過ぎてゆく。わたしはここにいるし、わたしの周りの空気もここにあるはずなのに、何が過ぎているんだろうか、と思う。

大学の先生の月記のようなものを覗いたら、先生は何かをするごとに「生まれ変わって」いて驚いた。ぜんぶ、周りじゃなくて自分の変化だったのだ。きっと、いつだって、日々が過ぎていくわけではなくて、わたしが生まれ変わっているのだろうな。そうすればつじつまが合うように感じる。



これに少し関係のあることかもしれない。今朝、通学路を歩いていて、心のことを考えた。実際には目には見えない心を、なぜか物理的に捉えているところがわたしにはある。きっとみんなにもある。
心は一つの物体で、何かが起きると磨り減ったり削れたり割れたりするものだと思っていたけれど、それは少し違うかもしれないとひらめく。心は分裂するし、膨張したり昇華したりすることもあるな。実際に、わたしはひとに心をあげたり、本当に心が消えたようになったり、外に飛び出してしまいそうなくらいからだの中が心で充満したりする。比喩ではなくて、本当の感覚だから、やっぱり心は物理的にもあるんじゃないかと思う、目には見えないとしても。


疑いようもないことだけれど、鏡や水面や光のおかげで、なんとなくその存在は知っている、自分の顔だって本当にあるかわからないよね。他人に顔があるから、演繹的に、ないはずがないし、手で触れるから、確かにあると思ってはいるけれど。あんまり極端なことばかり言ってたら「やっぱりわたしちょっと変わってるでしょう?」ってアピールみたいだしやめるね。



この前、たぶんあのひとは、わたしのネガティブさに対して、是非を唱えず、事実指摘だけしてくれていた気がする。表現は忘れてしまった。だからこれもわたしの夢かも。それがすごく新鮮だった。単なるわたしの性質として、その場を流れていく様子が、その空気の波みたいなのが見えた気がした。まじかよ、幻覚??いや、ほんとうに。だからそれ以外のこと、全然思い出せません。悲しいけど。わたしは空想の中だけ生きてる。文字の中で。でもありがとう。



人の、表現がとても好きだ。内容あってこそなのかもしれないけれど、うまくいっていてもそうでなくても、好きだ。誰かと似ていても、ユニークすぎても、それがその人らしさなのかしら、と好きになってしまう。あぁなんか、この話もしたかも。食べ物も、美味しいと美味しいし、あんまり好きな味じゃなくても逆にそれがいいかも、と思ってしまって、何が美味しくないのかよくわからない。そこを自分の中では問題視しているから、わたしは相対的に生きていて、周囲のひとに流されていると思うのだ。けれど、勢いで枠からはみだしてみたりもするので、周りからどう見えているのかわかりません。困った。



きっとこの先も、よくわからないまま、わたしはわたしを続けていく。けれど一瞬一瞬、生まれ変わっているのだと思うと、とてもわくわくするし面白いので、出来ればいい形を目指してください。まぁ、悪くても「逆に良い」って言ってあげるよ。まぁね。







5秒後の追記・
あらまぁ。インプットとアウトプットの話しようと思ったのに。アウトプットの仕方がわからないという話。わたしはわたしの言語体系でわたしと対話し続けているから、ほかの人と話すとき慎重になったり、それが面倒で大雑把になったり、けれど常に相手の動向を窺う形になっている。そうして結局、日記を書くことでしか出力できないのだけれど、それは果たしてわたしらしい出力と言えるのだろうか。そもそも、インプットの段階で、普段自分の思っていることに近いものや納得できるものばかりを選択しているような気がして、ということはすべてリサイクルみたいに、自分を繰り返しているだけなんじゃないかと、思ったのでした。自分を発信し、自分を受信する。でも表現が、文字の大きさや変換の仕方や色や形が違うでしょう。その差異が、わたしはとても好きだから、愉快に生きていけるのかも。インプットが多すぎない?という懸念のお話。ちょっと自粛してみようかな、と思います。とくにタンブラー。