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青のなかをもぐる

オノマトペだけで通じあえたらいいのにね

今日のまじめ

まいにち

このまえ偶然すきなひとにあってしまってから、ぼんやりしている。(今日のこの文章は特にまとまらないと思う。読み返さずに続けます)


10年近く前はきっと、好きな人と一緒にどこかへ出掛けたいだとか、あいしあいたいと思っていたのかもしれないな、と回顧してみる。(よく思い出せない)


いまのわたしは、昨日や今日、真剣に考えてみたら、「同性の後輩」や「大型犬のペット」みたいになりたいと思っているのだった。と書くと更に気持ちが悪いのですが、かなり心のなかを的確に言葉に出来ている気がする。

どこかにでかけたいと思うときに呼び寄せて欲しい(口笛でもテレパシーでもいいけれどたぶんうまくいかないから電波で)。呼ばれて駆けつけたい。そのひとが好きなことをすきなふうにしているところを、ただ見ることが出来て幸せだなと感じたい。
ばかみたいでしょう。かなうはずがない。わたしは空気にはなれないのだ。だって、人間で生まれてきたんだもの。構成元素もきっと少し違うし。


そのひとはあの日一瞬だけ、わたしの髪をぐしゃぐしゃと撫でて、そのときわたしは「このひとんちの犬になりたい」と思ったんだった。回らない頭で。(もしかするとこれはすべて夢なのかもしれない)





4年位前、もうすこし若くてしゃきっとしていた頃は、シンプルな家具やカラフルで優しい部屋に憧れたりして、雑誌を読むのも楽しかったのだけれど、今日本屋さんに行って見たらぜんぜんときめかなくて驚いた。人間も時代を持っている。時代が人間をつくって、人間が時代をつくっていると考えるととても不思議だ。

でもわたしは一つだけ変わらない単位を持っていて、それは「青」のことだ。好きな青が全く色あせない。これは比喩でもなんでもなく、単に色(Color)の話だ。ちょっと明るくてもきれいでもだめで、その青が一番好き。ちょうどよい濃さで、淡さで、均一で、見ているとわたしには心があるなぁと思い出す。でも色と人間の感覚の関係って複雑で、あんまり絶対的なものじゃないでしょう。そもそも、わたし、色の作り出し方もよくわからないし。だから、好きな青にばっちり遭遇できたら奇跡だ。でも、周辺の青も結局好き。

あと、形や組み合わせも結構好き。



何の話をしていたっけ。




そうそう。この間、先生から具体的にどういう質問をされたのかは忘れてしまったのだけれど、わたしは「生きているなかではけっこう数学は好きです」みたいな言葉で答えていて、それをなんとなく歩いているときなんかに思い出して、「果たして正しかったのかしら」と思ったのだった。先生の質問に対しての正しさ、というわけではなくて、わたしの心に対しての、正しさ、というか、正しい近似。あぁ心を取り出して「どうぞ眺めてみてください」と言えたらなぁ、と怠惰なことを考えている。人と人がわかりあうことはとても難しいし、理解しあうことはとても複雑な取り組みなのではないかという気がしてくる。こうしている今も、わたしは本当に好きとはどういうことなのだろうと思いながら、憧れの人に恋焦がれているし、本当のことはなにもわからない。「本当」がすべてからっぽなんじゃないかとさえ思えてくる。

わたしはきっと、没頭している瞬間がとても好きで、おそらく数学はその一つの方法にしかすぎないのかもしれない。たとえばわたしは形がとてもすきで、雑誌の恋愛相談のコーナーではちっとも時間をつぶせないけれど、腕時計の広告は1時間近く見ていられたりする。(どこかおかしいとおもうけれど、みんなそういうことあるよね?とおもっている)


まわりのみんなが、好きなことややりたいことを見つけて前に進んでゆくから、困ってた。そうでなくてもきちんと誰のそばにいたいのか見極めることが出来ていたり、「これが趣味です」とか「ここにはお金をかけます」とかそういうことをうまくこなしていたものだから、わたしはずっと何が好きなんだろう、とか考えてた。わたしはご飯を我慢することもできるし、お金を貯め続けることもできる。じっとここにいることもできる。働くことも出来る。でも「ぜったいにこれがすき」と思うものが何もない。イチバンがない。それがすごく負い目に感じるし、中途半端で厭だった。全部ないものねだりなのだけれど、何かがすごくすきで、それだけで、その気持ちだけで生きていければいいと思ってた。

結論はいくつかあって、どれも同値な言い換えではあるのだけれど、とても単純なこと。わたしはわたしなのだよってこと。トータルでわたしはわたしなのだ。仕方のない事実だ。悩むことはなくて、わたしのすることがすべて「わたしのすること」にしかならない。もちろん世界(社会)のなかにいるから、巻き込まれている。わたしの考えはわたしの考えではないかもしれない。いろんなことが、摺りかえられたりしているのかもしれない。でも神様じゃないからすべてを俯瞰できない。「きみは夢のなかにいるよ」とわたしに耳打ちすることもできない。何が出来るのかといえば、信じることくらいだから。(だってもしかしたら生きてると思ってるだけで死んでるのかもしれないし)


好きな音楽は好きでいい。もっと詳しい人も自分より好きな人もいるかもしれないけど、好きは好きのままでいい。でも人に強要するのはたぶん違う。嫌いも同じ。他の事も同じ。考え方も同じ。いまはそうやって信じてみるしかない。いつかそれ以外の方法を思いつくまで。




わたしはすぐそのとき好きなひとの話し方のまねをして話してしまっている。それに気づくのは少し先になってからだけど(そして自分以外の人にはわからないらしい)。
人間は会話をした人の分だけ広がっていくんじゃないかと思う。誰かを好きになると新しい自分になる。でも古い自分もいなくならない。新しい部屋が出来ていく感覚。読書体験も映画も美術も科学も、必ずその人となりが滲んでいる。だから人間は何かに出会っている間は際限がないんだろうな。




まぁ何が正しいかはよくわからないけど、遠回りか近道かもわからないけれど、まずは過去も現在も未来も信じてみるしかないのかも。それって、なんだかすごく生きている感じがするね。