青のなかをもぐる

オノマトペだけで通じあえたらいいのにね

どうでもいいことならいいのに

パーケンショックから全く立ち直れずにいたときに書いた言葉を載せておく。完全に、わたしがキンコメの、特に高橋の盲目なファンという視点でしかモノを話していないので、もし仮になにかの検索でここに辿り着いたひとは、そちらに留意してください。




わたしがキンコメがすきなのは、ふたりの関係、年齢が逆転してるような今野さんの落ち着きと高橋の少年らしさ。も、もちろんあるけどやっぱり、コントが面白い。笑えるところ笑えないところ、全部含めて面白くて好きで仕方ないのだ。

キンコメのコントは、大体今野さんが世間的にやばい、どこかズレた、暴走族の長だったり、校長先生だったり、ラジオのリスナーだったりする。現実にこんなひとたちがいるところに遭遇したなら、わたしは悲しくなるだろうな、だって確実に周りから浮き、省かれているだろうから、と思っていた。

それをコントにして、なんだか笑えてしまうようにしているところに、神様のようなモグラのような優しさみたいなものを感じていた。本当の今野さんはすごく真っ当なひとだし、高橋も一見普通の人だから、コントが創造物であり演技であることは明らかだからだ。その笑いは誰かを傷付けたり嘲笑うことなく、巧みさと危うさのなか練られて、舞台にあげられていた。


単に抱腹絶倒なだけでない「優しさ」(これは狂気ともいえるし哀愁ともいえる)、圧倒的にズレた空間。その違和感が好きで仕方ない。新しいネタが見れないのだとしても、わたしのなかに蓄積されたキングオブコメディは一生色あせないはず。


そしてニコキン。スタート当初わたしは高校2年で、勉強や部活で色々な悩みを抱えていた。その頃、何度も何度も見ていた。あの番組がKOC優勝前にスタートしたことがすごいと改めて思う。逮捕直前まで続いていることも。水色の座椅子に座ってだらだらと話すふたりを、わたしはノートパソコンに顔を近づけながら見入っていた。
「れにちゃん」という言葉が出てきたときの衝撃も覚えてる。わたしと同い年のひとのことを高橋が好きなんて!という複雑な気持ち。いろいろ思い返すほどわたしは高橋健一というひとが好きだったのだ、と気付く。

わけがわからない、というのはちょっとしたキーワードで、わたしは高橋の顔が好きなのか、声が好きなのか、あの人柄が好きなのか、よくわからない。わからないし、逮捕のニュースを偶然目にした時、正直一切疑わなかった。同姓同名の別人だとか、悪質なコラージュだとか、全く思わなかったのだ。


報道を見たとき、一瞬で、あのキンコメのコントをつくってるひとだしなぁ。というわたしの感覚が正しかったと告げられた気がした。今野さんと高橋さんがコントに漂わせる、わたしが好きな、でもおそらく現実的には奇妙な違和感の正体は、これだったのかも、と勝手に、妙に納得してしまった。笑うしかなかった。なにしてんだよう!って。不謹慎ながら「なに見つかってんだよぅ」って思ったんだった。



「たまったのを持ってるだけ。」
「ずっとはないって。いつかは捨てるかもしれないし。」
「ほんとにコレクションって感覚はないの。まだ捨ててないだけ。なんとなく、捨てたくないっていう。」
新しく始まった貝の連載で、高橋が言ってる言葉の一部。これは貝についてなのだけれど、罪の認識はありつつ、同じような感覚で学校に忍び込んで家に溜めてたんじゃないかなと思ったりする。いや、実際のことは、高橋にしかわからないけれど。しかしこの世ではそれは確実に犯罪なのだ。償わなければならない。それはきちんとしてもらわなくては困る。「二度としない」なんて無理なのかもしれないと思いつつも、ちゃんと反省して誓ってほしい。


でもやっぱり、高橋の代わりは高橋しかいない。まだ3日程度しか経ってないけどそれを強く感じている。あの滑舌の悪い話し方も、腰の低さも、何となく話しにくそうに話してるとことかも。境遇も性格も高橋でしかない。だからただ悲しいだけだし、どんな形でもいいからもう一度話してる姿が見たい。


別に嫌いにならなくていいよ。ずっと好きでいいと思う。待ってるとかは辛いからやめたらいいよ。無理に頑張らなくていい。





これを書いたあと、涙が止まらなくて、3時間くらいずっと何で泣いてるかわからないまま泣いていた。止まらなくて、外に出ても電車に乗ってもバイト先でも止まらなくてずっと苦い顔をしたり、笑ってみたり、難しかった。生きていくのって難しい。



今は有吉の壁で笑ったりして元気が出てきた。でも卒論全然終わってない。ほんとはこんなことしてる場合じゃないのだ。なんなんだもーう。高橋なにしてくれてんだよう。うー。でもこんなにも好きなんだわ。困っちゃうね。死なないでね。