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青のなかをもぐる

オノマトペだけで通じあえたらいいのにね

赤いポストに打ち明けた桃色の微熱

ながくしゃべるのはたぶん今日でおしまいです。おうちにかえってきてからというものの、安心して、というか、だらだらしすぎて良くないなぁ。ひらがなも多いし。わたしはひらがなの丸くて優しさにあふれたイメージを愛しているけれど、多用するとばかみたい。優しさは、それがあたりまえになった途端に手のひらを返すみたいに邪魔をしてくる。思考を停止させる。




セロトニンという物質は、おそらく数少ないわたしの味方なのだろう。わたしは君に可能な限りの感謝の花束をわたしたい。自分というものがなくなればいい。わたしはあのひとにもあのこにもなれないのだから。




「まち(町・街)」という言葉がわたしはすきなんだけど、わたしの住む地区に対して、町や街という感覚を抱いたことがない。たとえば、くるりは「この街は僕のもの」と言っていて、わたしは曲全体に単純に憧れたり、ちょっとした孤独を感じるのだけれど、わたしにはそもそも街がない。それはさみしいことだ。帰る場所がないみたいな気持ち。

逆に言えば、わたしの住んでいるところは縁がなくて、ずっと広がっている(まさに開集合みたいな)印象で。どこにいってもつながっているような。不思議だなと思う。もうしばらく住んでみて、だらだら歩いてみよう。もしだれか一緒に歩いてくれる人がいたらもっといいのにな、って、人生で初めて思ったりしてる。そんな日々。




この気持ちは、恋しさなんだろうか。恋しさってさみしさとどう違うのかな。高校生のときにやった、マインドマップみたいに、愛から様々な言葉を派生させてみる。愛はむしろ実体なんてなくて、他のすべてこそが愛なんだと思う。その「すべて」は、なにかが欠けていても成立するような脆いものだ。どれが余分で何が足りないかなんて、誰にもわからない。うまく調和したところで、わたしとあなたにだけわかる形で、成立してる。




ともだち(わたしはすごく大切におもってるひと)が、冬から北欧の街に長期滞在するらしい。遊びに行ってもいいかな?困った顔して、身を寄せさせてくれないだろうか。もっといろいろなものがみてみたいけれど、やっぱりひとりじゃ不安だ。道路標識さえ見誤るようなわたしだから。

遠くに行きたいと、ずっと祈ったりしているけれど、同時にここにいることだってものすごく大切で、好きなことなのだ。




この夏に知り合うことのできたあのひとは、みつめると面白い顔をしてわたしを笑わせたりしてくれた。名前を呼ぶと同じリズムでわたしの名前を呼んでくれた。わたしはまたあのひとに会いたいし、なんだか悔しいから、だれかに会いたいと思ってほしい。夜明けまで楽しく騒ぎたい。というか、別に実際に夜明けまで騒がなくていいから「夜明けまで騒ごう」って思ってほしい。気持ちのほうが大切だな。わたしはあんまりバランスというものを考えずに生きてき過ぎた。もっとぼんやりでいいんだろう。




また地道に努力したら会えますか?あいたいです。





季節ごとにひとを好きになって忙しいな。もっと報われることを望めばこんなことにならないんだろうか。でもそれは性に合わないことだから。こんな生活をつづけていくんだろう。どんどんそこで鳴る音楽も移ろっていく。温度も匂いも色も、変わっていくものだから。





もっと写真を撮ろう。幸せかもしれないって思いながら、ちょっとずつ歩きます。