青のなかをもぐる

オノマトペだけで通じあえたらいいのにね

いつか月に届くだろう

なにを書こうか、ってずっと考えてた。そんなことは生まれてからはじめてで、困ったまま、そういえば。はじまりをうやむやにすればあとは進むしかなくなるな、ってことを思い出した。

 

 

日記は始めようとして始めるものじゃなくて、書いたらもう始まっている。

 

 

これはいろんなところに現れて、同じように終わる。日記だけじゃなくて、季節も、恋も、そんな感じ。わたしはそういうものがきっと好きなのだ。

 

 

 

未来のことを考え始めると、動けなくなる。わからなくてこわくなる。でも、未来の始まるところは、日記と同じようにあやふやなのだから、身構えなくていいんだな、って思いました。わたしは好きなことをしたらいい。

 

好きなことはなんだろうね?

 

最近になって、ラーメンとカレーが好きだと気がついた。青の次に冬の夜が好きだと思っていたけど、夏の朝も同じくらい好きだった。ぜんぶ知らなかったこと。最近気づいたこと。

 

 

好きな人が好きじゃないことを包含していることも知った。この場合は超越と言ったほうが正しいのかもしれない。性質が、その人を形作っていることに変わりはないけれど、本質的に好きってことは、もう変えようのないことなのだと思う。

いつの日か何を言ってるのかわからなくなる時が来るとしても、いまはこれでいいのだ、

 

 

 

そんな感じ。

 

きっと死ぬまで生きていくだけなのだ。これは、否定的な意味を持たない。わたしはずっと生きていく。

 

CLOVER

 

「言葉が足りなければナイフで裂いて体からえぐり出していい」なんて、愛って優しくないね。そんなの、知らない!

でもこの曲はずーっと好き。スガシカオの月とナイフ。(中学生のとき、生徒会室で勝手に歌詞を印刷した。業務以外に使っちゃいけないからはらはらした。意味なんてどうでもよくて、歌いたかったから。)

 

大人になれるかな~

ゆらゆら空を渡る

あけましておめでとう。

 

 

おひさしぶりです。お元気ですか。わたしは変わらないままです。

 

 

ふと気がつくと、色のない人間になっていました。いろんなものを見て、からだじゅう、色とりどりのはずが、来ている洋服も持ち物も暗い色ばかり。困ったなあ。と呟きながら笑っている。とげとげしながら笑っています。

 

 

今年はきっと忙しくなるのだけれど、それはわたし次第であって、ぼーっとだらけてしまえばまた間延びした1年になるはず。

 

 

大森荘蔵ブームが来てしまったので読みます。

思考と論理 (ちくま学芸文庫)

 

わたしは頭のなかに知識を取り入れて、咀嚼して別のものにその欠片を直接注入するようなことに熱中できない。そこには驚きが少ない気がしてしまう。それなら何もしなくていいや、と思って、またお昼頃まで寝ています。そんな生活ばかりしているわけにもいかないので、何も考えずに本屋さんに行きました。

 

年末は何か買いたくて仕方がなかった。何でもいいから、心が弾む何か。ひとつでいい。小さくてもいい。

とはいえ流星は熱くて早くて重くて手では掴めません。月もきれいだけど、実際に保持してしまえばただの塊。地球の衛星だからこそミステリアスで美しいのです。くどいですが続けますと、海の水も掬ってしまえばあの透き通る青はもう戻ってきません。

 

結局ノートだけ買いました。ほしいノートはもうすべて廃版で、わたしは時代に適応できてないな、と寂しい気持ちになった。でもこの小さな寂しさは、わたしの心を満たしました。不思議と充足感を得ました。あぁわたしは寂しい、と思うと、心の重みを感じました。そんな感じ。そんなふうに1週間くらいが過ぎました。

 

大森荘蔵は物理や数学にも明るくて説明の仕方が面白い。いまの印象はそんなふうです。山の奥の足湯でおしゃべりなおじいさんに会った時に似ている。ラッキー。!

 

 

 

 

正しさはわからないけど、わたしは今まで、家族って遠く離れても平気なものなんじゃないかなって思ってました。というか、恋人だとしても一緒にばかりいると飽きてしまうものなんだな、好きって気持ちなんて風邪みたいなものだなって考えてた。だから鮮やかで目まぐるしい場所に身を置いて、忙しくしながら死ぬのを待とうとしてた。

 

でも今は、ちょっと違うのかもしれないな、と思い始めたところです。ずっとそばで眺めていたくなる人を見つけたみたい。こんなこと、言葉にして残しておかなくてもいいのだけれど、いつか忘れてしまうかもしれないから。

優しいときは嬉しいし、面倒なところも、振り回されたい。目まぐるしさを景色に求めていたのだけれど、この人のとなりにいれば、わたしがくるくる回っていられる。なんてことを、いまは思っています。

 

 

インプット/アウトプットへの願望が交互にやってきて、季節みたいに。いまは、アウトプットが必要なんじゃないかと考えてる。というか、手軽なインプットをし過ぎたんじゃないかという気がします。両方並行出来ればいいんだろうな。

 

 

計画してそれを実行してみたいです。2017年。

頑張りましょう。頑張ります。

 

 

 

スピッツの幻のドラゴンをよく聞いてる。君に夢中で泣きたいくらいなんです。いつか覚めるとしても!

ぼやけた優しい光

あの子の撮る写真のなかのわたしはいつも笑っている。脹れていても、睨んでいても、口元や目の奥が笑ってる。

 

 

全部知ってもらえたらいいのに、と思う。

 

 

 

 

 never young beachの「お別れの歌」のミュージックビデオ、見ましたか。

 

 


never young beach - お別れの歌 (official video)

 

バンドのことはモヤさまのエンディングをうたっていた、ということぐらいしか知らないけれど、小松菜奈ちゃんがとてつもなくかわいい。ずっと好きな女の子だ。ずっと、と言っても、7年間くらいだけど。小学生一人が卒業してしまうような期間好きでいるのは、もう恋と言ってもいいんじゃないかしら。と思ったけど、断続的なことでしたから、そんな大げさには言えない。撮ってるのは奥山由之さんだった。しめしめ。と思った。奥山さんだと思ってたからです。

 

 

 昨日は太宰治の斜陽を読んだ。

斜陽

「恋、と書いたら、あと、書けなくなった。」

鮮やかでくらくらした。これが一章の終わりの文。始まりではないから、なおさら心地よい眩暈がしてくる。

しばらく読書をしていなかったせいなのか、無関係なことか、やたらと読みやすく感じて不思議だった。内容は読みやすいものでもないとおもうけれど、太宰治の文章はうまくて、出てくる女は大抵意思の強さを感じる。そんな女のことを、太宰治は憧れつつも疎ましく感じたりしていたんじゃないかって勝手に妄想している。キラーフレーズがたくさんあるのでやっぱりすごい。

 

 

 

あんなに日記中毒みたいに日記を書かずにいられなかったのに、今はなにも言葉にならない。そんな日々が続いている。こんなのわたしじゃない、と思い込みたくて、いろんな音楽や本や映像や色や形を探してみたけど、あまり変わらなかった。悲しみたくても心の空白を感じなくて、どうすればいいのかよくわからない。

 

 

まるで恋のはじまりが何ヵ月も続いてるみたいだ。たくさんのことを思い出せない。思い出せなくていいや、と諦めている。笑っている。

 

自分の未来のことを思うとずっと寝ていたい。思い出したいのは君だけ。わたしじゃだめなところは、他の人に回そうかな、と思う。このままを抱えて、生きていく。それもいいし、それでいいかな、と思う。とても寒い、眩しい陽射しの日に。どうもありがとう。いつもありがとう。

 

 

 

 

既に空き地になった素晴らしいブログを見つけると、この人の言葉をその発せられた瞬間に知りたかったと悔しくなる。わたしはここに来ることを止められないと思う。止めるときは、このページも消してしまおう。そうしよう。またこんどね。

未来を今 踊る

しんでないですよ。ばぁ。




実質死んでいて、心だけかと思えば比喩でなく体も半分くらい死んでいて、他人に迷惑をかけたり自分を振り回したり他人を振り回したりしていた。


自分の輪郭が点線だった3週間ほどを、どうやって過ごしていたのか、今となってはあまり記憶がないから11月を振り返ってみたけど、案外楽しかったんじゃないかな、と思えてきて、なおさらふしぎ。たぶん「楽しいのに!こんなに楽しいのに!どうしてむなしいきもちはなくならないんだろう!」みたいな種類の絶望なのだと思います。




自分が大切にされていたり、物事がうまく進んでいたり、笑っていられる瞬間にも、いつもマイナスの出来事は存在していて、それがなくなることは一生来ないんだと思う。だからこそ、おいしいものを食べて、よく眠って、日々を動かしていくことが基軸になる。きっと好きな音楽を聞いたり、本を読んだりすることはその次。わたしはちょっとまちがっていたのかもしれない。

でも、どこかで、そんなふうにして長く生きていくことに何の意味があるんだろうということを考えてしまう。これを考えはじめるとき、わたしは心の中の(小さい)わたしを暗い穴に閉じ込める。これは戒めのようだとわたしは思うけれど、一種の保護策なのかもしれない。一生考えてればいい。



すきなごはんやすきな人やすきな音楽とはじまる朝って、とてもいいよね。一日は絶対に夜がきて終わっていくけど、どこかでかならずまたはじまるから、はじまることにしか気がつかないまま死んでしまうのだから、とかなんとか言葉をごちゃごちゃ並べてみたら、生きてることはそれ自体なんだか幸せな気がしてくる。その魔法がとけないように、他愛のないことをくりかえしてみる。






そういえばこの間の星野源がでてるドラマ(名前が長くて覚えられない、火曜日の、逃げるはなんとかってやつ)でガッキーのお母さんが「運命の人にするの」って言っててやられました。キラーフレーズ。逆に言えば、努力しないでもずっと一緒にいられる運命の人なんていないってことです。そう思ったら少し安心する。どこかにいるのかもしれないなんて、きょろきょろしなくてすむ。人と人とは相性なので。いま手元にあるのが運命。



Cメロにでてくる「揺れる笑顔も」という歌詞がとてもすきだ。「泣き顔」「黙る夜」の対比としての「揺れる笑顔」、うまく説明できないけどすごくうれしくてないてしまいそうになる!笑顔だけでも圧倒的だけど、揺れる笑顔だよ。すごいなぁ。みんなで紅白の星野源見ようね。
恋

そういえばちょうど一年前にYELLOW DANCERが発売だったような気がします。





もう今年も一ヶ月なんて信じられないけど、こんなふうにずっとつづくんだろうな。それもまたいいね。

161115 Tue.

おはやう。ほんのちょっとだけ進んで、ひと段落ついたので眠りたいのだけれど、眠れなくなってしまった



何が面白いのかわからない。もっとわかりやすいことでおどろきたい。そもそも主観というものがよくわからなくなってきた。

わたしが面白いと思えればそれでいいと思っていたのだけれど、それが1番難しいような気もしている。他人を基準にした方が、むしろ楽かもしれない。



これからどうやって/なにを楽しみに/どこで/誰と/いつまで/生きていくんだろう。ね


「誰と」に当てはめたい人は、ずっと近くにいるんだろうか。わたしも君もだんだん変わっていくね。気づかなかったことだらけ。でも、ぜんぶそれでいいな、と思ってしまう。君がいい。これはすごいことだ。どうもありがとう。



自分が面白くないと、何も面白くないから、いろんなことを探して、見つける努力をして、自分の気持ちを守らなければならないと思う。いくら閉じているといわれても、外界も自分の心を介してしか理解できないってわたしはずっと思い続けます。

名前をつけてやる

寒いですね。と言おうとしたけれど、わたし、1ヶ月前と服装がほとんど変わっていない。厚着をして冬に備えなければ。駆け足でやってくるから、気づいたらもう冬になっている。何年経っても慣れない。



そういえば、わたしは、数学の何が好きかって、数学のもつ正しさが好きだった。煩わしさに変わってきてしまった。わたしはそれに固執しすぎたのかもしれない。自分が変わってしまったことが、空虚に感じられる。



やっぱり幸せなだけではうまくいかない。なにが?、わたしの生活が。幸せだけ食べて行ければいいのに。いい循環が続くのに。でも、わたしは言葉を綴らずにはいられないわたしのこと、気に入っていて、今もこうして日記を書いている瞬間が戻ってきたことが少し嬉しい。ここ最近は、何も言葉が浮かびませんでした。好きな人がわたしを好きで、それだけで日々が終わってた。


眠い日々があるだけだ。今日はこんな感じでおわり。あしたは本読んでエクササイズとく。

Let It Snow

気分はもう冬。クリスマスソングばかり聞いている。わたしのクリスマスベストアルバムは、スティービーワンダーとBoyzⅡMenとAshantiです。邦楽でクリスマスアルバムって、よく知らないな。

そもそも、海外に比べると、日本のクリスマスは印象が薄いかも。特にカップルや子供向けのイベントという感じがする。だからこそ、わたしは時々、クリスマスケーキに乗ったロウソクの灯りや、グラタンの匂いなんかを思い出して、暖かい気持ちになる。懐かしくて優しい。





わたしの街は、一気に気温が下がりました。数日経つとまた、初夏のような気候になるみたいだけれど、それでもやっぱり、ここには夏と冬しかない気がする。





「誰もしあわせしかいらないだろう」という歌があったけれど、幸せってなかなかむずかしいね。一瞬一瞬がとても幸せでも、一日、一週間、一ヶ月、一年って考えていくと、ずっと幸せなんて無理な話だ。


でも、こんなふうにだらだら考えたり、なやんだり、人と会ったり出来ているだけ、十分幸せなことなのかも。





今とても腕時計が欲しい。でも欲しいものがあるときって、吟味しすぎて結局買えない。それよりも寧ろ、たまたま見つけて欲しくなるもののほうがすんなり買える。不思議なことだなとおもう。人からもらったものばっかりだ。今の腕時計も。もし使えなくなったら、買うことにしよう。